尊敬する人、好きな言葉

「尊敬する人はだれですか?」というセンテンスを時折耳にします。通常、歴史上の偉人や時の権力者の名前を答えるわけですが、ちょっと疑問です。尊敬というのは、人格や思想・行為を敬う行為です。…偉人の業績に対し敬意を表するという気持ちは分かりますが、それは人格を敬っているわけではないと思うのです。良く知りも知らない人の人格や思想をどうして尊敬することができるのでしょうか。伝記や小説などで描かれた人物像に感銘を受けて尊敬するということもあるでしょう。…でも、でもです。「誰ですか」って質問は何でしょう?「尊敬する人にはどんな人がいますか?」なら分かるのです。「敬愛する人はいますか?」でもいいでしょう。「誰ですか」では、誰か尊敬する人を、一人、定めていないといけないみたいではないですか。実際、「尊敬する人はだれですか?」という言葉が平然と利用されていた時にはそう言う風潮があったようで、伝記を読んで尊敬する人を決めなさいみたいな事もあったようです。そして、思想を調査するために利用されたりしたそうです。
最近では、入試対策に「両親」や「先輩」などをあげるように指導されているそうです。個人的にはこの回答に納得ですが、おかげで、面接で「尊敬する人はだれですか?」という質問をされることは少なくなったそうです。日本人は盲目的です。
「好きな言葉は何ですか?」という質問も耳にします。名言名句や故事成語、四字熟語などを答えるのが一般的な回答だと思います。言葉に好きも嫌いもないと思うのですが、世の中にはいい言葉と悪い言葉、好きな言葉と嫌いな言葉を分けて利用している人がいるようです。「座右の銘は何ですか?」なら、わかります。自分への戒めとして常に身近にしたいと思う言葉です。間違っても、好きな言葉ではありません。
以前、学校への提出物で書いた文章の中に「昇華」という言葉を使いました。低俗なエネルギーを高等な何か(主として芸術)へ転化しようという意味の言葉です。赤ペンで○付けて「いい言葉です」と書かれました。言葉の使い方には良し悪しがあると思いますが、言葉に「いい言葉です」とコメントが付くとは思いませんでした。
名言名句には好き嫌いがあるかも知れません。フレーズやセンテンスにも「これが好きだ」というのがあるでしょう。でも、言葉…つまり、wordやexpressionは、単に意思や感情・情報を伝える手段であり、好きや嫌いといった評価の対象ではないと思うのです。
などと馬鹿なことを、朝起きてすぐ、布団の上でまどろみながら考えていたのでした。