食育と「いただきます」

PTA関連の印刷物を頂いているので、頻繁に「食育」という言葉を耳にします。食を通じた教育とかそういう意味だそうで、自民党の昨年夏の衆議院選挙のマニフェストにも食育を進めるといったことが記載されていまし、先日の第164通常国会招集の首相は施政方針演説でも触れられました。その食育の中心的な教義が『食べ始めるときに「いただきます」と言おう』というものです。この時の「いただきます」は、「あなたの命を頂きます」という意味だそうで、「いただきます」と言えば、命の大切さや、他の生き物の命や他の人に自分の命が支えられているのだとする謙虚さ、あるいは礼儀やマナーなどが身に付くとされています。
さて、TBSラジオ永六輔その新世界」という番組で永六輔さんが「びっくりする手紙です」として、次のような手紙を紹介したそうです。

ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と
毎日新聞の(このページ)より引用

なかなか面白いことを言う人です。現在の「食育」の考え方に真っ向から対抗しています。個人的には好きです、こういう人。ちなみに反響は、否定的なものが多かったと言うことです。
自分はというと、上の記事でも指摘されているような「宗教的行為」で、毎日「いただきます」と言っています。だって、手を合わせていますから、明らかに仏教の影響です。特に「命を頂く」的発想は、仏教的だと思います。ただ、自分的には頂いているものに「お命頂戴致します」という気持ちは毛頭無く、単に「飲む」「食う」の謙譲語として利用してます。「御馳走様」も同じ。何も言わないで食べると怒られる家なので、とりあえず「食う」「食った」と宣言するわけです。
この問題に関して、当の永六輔さんは、

永六輔さん「宗教的なことを押し付けるのは僕も良くないと思います。でも「いただきます」という言葉は、宗教に関係していません。自然の世界と人間のお付き合いの問題です。」
「「お金を払っているから、いただきますと言わせないで」というのは、最近の話です。命でなく、お金に手を合わせちゃう。会社を売り買いするIT企業や投資ファンドにも共通点があると思います。話の発端になった母親は「いただきます」を言うかどうかを、物事を売る、買うという観点で決めているのでしょうね。」
「「あなたの命を私の命にさせていただきます」の、いただきます。でも僕は普段、家では言ったり言わなかったり。ましてや、他人には強制しません。」
「普通に会って「こんにちは」、別れるときに「さようなら」。何かの時に「ありがとうございます」「すみません」「ごめんなさい」という、普通の会話の中に「いただきます」は当然入ってくると思うんです。特別に「みんなで言おう」というのはおかしい気がします。言っても言わなくても、大声でも小声でつぶやくだけでも、思うだけでも、いいことにしましょう。」

などと、語っています。本人には自覚はないと思いますが、まさに食育の王道をいくような考え方で…、個人的には好きではありません。キリスト教圏内では、十字を切って「アーメン」というそうですし、日本では手を合わせます。「いただきます」言うと同時に手を合わせるのは宗教的な行為でしょう。それが一般化して土着の文化になれば宗教とは関係なくなるとする意見を否定はしませんが、それを「宗教とは関係ない」とするのは、開き直りでしかなく大きな間違いです。宗教的な行為を押しつけるのがよくないのなら、「頂きます」と言って手を合わせるのもよくないと言うことになります。
じゃぁ、手を合わせなきゃいいんだろうと、そういう話しになりますが、どうも手持ちぶさたです。そもそも、食育を推進する人も、「手を合わせなきゃ駄目だ」と心の中では思っているでしょう。そんなものです。
どうでもいいんですけどね。今時、いちいち人が「いただきますって言わない!」って怒る人なんて、見たこと無いですし。ただ、子どもに言わせないで欲しいって言ったら怒られるなんて。大人は言わなくて良いけど、子どもには言わせたいというのは、やっぱり食育の影響だろうなと思います。もともと、仏教では、殺生は御法度ですし「アンタの命を頂く」なんて、絶対あり得ないし。

ちなみに、「ただいま」は『「只今、帰りました」の略』です。学校では、「農家に感謝して頂きますというのだ」と習いました。