『自己責任』を改めて考える

イラクの人質事件を背景に広く使われるようになった「自己責任」。今日は、この言葉について考えてみようと思います。…まず意味が分かりません。そこで、「自己責任」という言葉がどこで使われているか調べてみました。

マスコミ用語での「自己責任」については、こちらに詳しかったです。
身近なところでは、主に「契約などにおける免責事項の根拠」(Wikipediaより)として利用されています。これは経済用語の「自己責任」と同じ意味で、提供されたデータやサービスを利用するリスクは全てユーザーが負うとするものです。特に無償で提供されるソフトウェアやWEBサイトのサービスでよく見かけます。
他には、例のイラク人人質事件で、被害者がテロリストと見られる集団に拉致され自衛隊の撤退を要求したことに対し、自己の責任を果たしていないという意味で利用されました。…。端的に言えば、

  • 法律用語「他人のリスクを負わないこと」
  • 経済用語では「自分でリスクを負うこと」
  • マスコミ用語では「自分の責任を果たすこと」

を自己責任と呼んでいるようです。…えっと…。燦々たる状態です。日本語の乱れは茲に極まれり。無茶苦茶です…と叫びつつ逃避したい…。
言葉から考えていくのは無理だと判断したので、行動から追っていきましょう。日本人の世論は人質となった3人と、人質となり殺害された1人について「自己責任だ」と強く非難しました。今の「自己責任」は文脈から判断するに「自業自得だ」という意味でしょう。「自業自得」とは、自分の業は自分で得る、つまり、自ら行った所業の報いは自分で受けなければならないという意味です。主に悪いことをした人が良くない状況に陥った時に利用する言葉です。
当時、日本ではイラクへの自衛隊派遣という極めてデリケートな問題の中、世論は一種のヒステリー状態に陥っていました。そこに3人の若い人がテロリストに捉えられ、日本に期限付きで自衛隊の撤退を要求するという緊迫した状態が発生しました。そこで多くの日本国民はこう思ったのです「あいつらは、何をやっているのだ。」その後、被害者は苦しい環境に陥り家族は政府に威圧的な対応を取ります。すると日本国民は「非常識なやつ」と考えるようになります。しかし、事態は一変し3人は帰国しました。ところが、日本国民の中には鬱積した感情が積もり積もっていました、そこで3人を強くバッシングします。そうして非難される3人を見てこう思ったのです「自業自得だ」と。しかし、まがいなりにも被害者です。「自業自得だ」という言葉を浴びせるのは人道に反するのではないか、非道な行為なのではないか?と心の中で葛藤が生まれます。ちょうどその時、「自己責任」という便利な言葉が登場します。本来の意味を婉曲して「自分の責任は自分で取る」という意味になった「自己責任」は、被害者を暗に非難する言葉として広く定着し、自分が他人に「自業自得だ」という非道な言葉を浴びせるような人間だ…という意識を抑圧することに成功したのです。(中には、「自業自得」という言葉を利用している人もいましたが。)こんな感じでしょうか。
では、具体的に3人と1人の怠った責任とは何でしょうか?法律用語での本来の意味の「自己責任の原則」(他人の責任を負う必要がないという原則)では、この文脈に適用するのには無理があると思いますが、恐らく、自己の安全を確保する義務を怠ったが、他人がその責任を負う必要がない…と。つまり、…どういうことだよ○| ̄|_。責任を果たさなかったために陥った状況を回避するために、国に援助を要請したことが、「自己責任の原則」に反している、とそういうことでしょうか。要請のありなしに関わらず、日本国政府は国民を守る義務があり、そのための国家であるので、その方法については選択の余地があるとしても、救助を要請することに問題はないはずです。
経済用語での本来の意味「自己責任」については、イラク国内に行くことがリスクになります。リスクは自分で背負いましょうということで、その先(テロリストに拘束された後)のことは取り扱いません。通常は、受けた被害を回復するために自費を出したり他人に救援を求めたりしますが、契約の相手は責任を持ちませんと、そういう意味の言葉です。相手というのがテロリストだった場合には、テロリストは被害者が拘束されるというリスクに対して責任を持たないという意味になり、…わけがわからなくなります。相手というのが国だった場合には、国または被害者が責任を取るべきだという話になると思われます。国には国民をイラクに出すリスクがあり、国民を守る義務があります。国民にはイラクに行くと被害にあるリスクがあり、生存する権利があります。問題はどこでしょう。
マスコミ用語での「自己責任」について、「自らの安全は自らが責任を持つこと」という意味でしたら、被害者は責任を果たしていません。「防御・救出に必要な人や物は自分の責任で準備すること」という意味でも責任を果たしていません。「国民の一人一人が自分の行動に責任を持つべきだということ」という意味だとしたら、何を持って責任とするかわかりにくいところですが、そう言っている人の立場からすれば責任を果たしていないと考えられます。「自業自得」という意味なら、可愛そうですがまさにその通りです。
…、今日考えてみた結果、イラク人質事件で利用された「自己責任」という言葉は、人質に対する鬱積した感情を自己の人格を否定することなく表現するために作られた新しい意味の言葉だという結論に達しました。自己完結です。
では、話を変えて、イラクで被害者になった方々に、日本人は一体なぜこれほど憤りを感じたのでしょうか?はっきり言ってしまえば、外国で邦人が死んでも我々には何の影響もありません。前々から被害者に不快な感情を抱いていたわけでもありません。常識から逸脱した行動であるかもしれませんが、特に迷惑をかけられたわけではありません。しかし、この様な感情が換気されるには、やはり被害者の行動によって不利益が生じると考えるのが自然だと思います。
考えられる損失として、救助にかかる資金が税金から出ていること、テロリストの要求に屈することによって対外的に悪い印象を持たれること、またテロリストの標的にされる恐れがあること、自衛隊が撤退することが軍国主義者の逆鱗に触れたこと、などが考えられますが、どれもパッとしません。常識を備えていないことに不満がある、被害者家族の高慢な対応に嫌気がさした、とりあえず世間を騒がしたことが許せない…、どこかこんな感じでしょうか。被害にあったことがいたたまれず自分にむち打ってわざと辛いことを言っている…まさか。他の人が騒いでいるから一緒に騒いでみた、日頃鬱積したストレスの捌け口として利用した、何となく悪い人たちのような気がしていた…そういう人もいるような気がします。
先日学んだ社会心理学を持ってきます。「自己責任論」は特定の個人に対する精神的な攻撃であり、社会正義の名の下に制裁を与える「制裁としての攻撃」(大渕による)と呼ばれる種類の攻撃です。このような情動的攻撃行動についてダラードは「欲求不満攻撃仮説」を提唱しています。つまり、社会正義に反することをしている人には制裁を与えるという社会心理的な反応であると、そう言うことになると思います。では、被害者のどう言った行動が、社会正義に反すると認識されたのでしょうか。単に誘拐(または拉致)されただけだったり、自衛隊の撤退を要求されるだけではこの様な問題にはならなかったと思います。
前述の通り、マスコミ語の「自己責任」は本来の意味での自己責任とは異なった言葉です。つまり「自己責任論」を振りかざす人は、マスコミから「自己責任」という言葉を習得したと考えられます。要はマスコミの報道や世論形成者で得た情報から、被害者の行動が非社会正義的なものであると解釈されるに至ったわけです。では、マスコミの報道はどの様なものであったでしょうか?たしか、まくし立てるように自衛隊の撤退を求める様子を見苦しいとコメントし、被害者には危機意識が無く非常識だと報道していたと思います。
外国で拉致された被害者の家族が子どもの救助を国に要請するのは当然のことですし、その為に国の方針に意見することもよくあることです。先進国の法律では移動の自由が保障され、国民はどんな所にでも行けることは常識です。リスクの高い場所に行き結果的に何らかの被害を受けるようなことがあっても、それは仕方のないことですし国には国民を保護する義務があります。国の方針に意見するべきではないという意見や、危険な場所に行くべきではないという意見は当然あるでしょうが、それにしても今回の報道にはバイアスが大きいように思います。なぜこの様な報道がなされたのでしょうか?ん〜。マスコミの報道が中立の立場だというのが、一番分かりやすい答えではありますが、マスコミに誤った意味での「自己責任」という語が発生したのは何故なのか。マスコミが造語を作るのは毎度のこととしても、その言葉を好きこのんで利用したのは何故なのか。
日本人は、イラクで人質が取られるという異常事態のなかで、何らかの制約を欲し「自業自得」を求めたのかも知れません。国にすがり、常識を信奉したのです。常識的な生活をしていれば国が守ってくれると思いたかったのでしょう、きっと。