「頂きます」を考える

2006年1月23日(月)に『食育と「いただきます」』と題して、学校に「お金を払っているのだから、うちの子には頂きますと言わせないでください」と言った保護者の話題に触れました。

そこでラジオのリスナーが「頂きます」と口に出すことは仏教とは無縁だが、自然で人間が生きる上での礼儀だとしています。そして、「言っても言わなくても、大声でも小声でつぶやくだけでも、思うだけでも、いいことにしましょう。」としめています。
単純に考えれば別にたいした問題ではないのですが、このラジオのリスナーは番組中で宗教や食育の観点を持ち出し、話しを複雑にしました。具体的には、こういうことです。

  • 食事前に合唱するのは仏教に影響を受けているから行うべきではない
  • 「頂きます」と唱えるのは食べ物の命をもらうという意味であり自然と人間とのつきあいの問題だ
  • お金を払っているから「頂きます」と唱えなくてよいとする考えは、IT企業や投資ファンドにも共通点がある

個人的には、このリスナーは嫌いではないのですが、冷静に考えれば電波です。意見を寄せた人が電波で、その影響を受けたのかも知れません。
事実関係を確認しますと、食事の前後に挨拶をするのは一種のマナーで世界中で行われています。その方法は神の祈りを捧げて十字を切ったり、手を合わせて「頂きます」と言ったりそれぞれです。特に学校では率先して、この様な教育が行われています。多くの人はこの件について異論を唱えません。
次に合唱をする行為ですが、これは恐らく仏教に影響を受けているものと思われます。キリスト教国で十字を切ることや、他の国では合唱してから食事をする国が少ないことからも想像されます。但し、現在の日本では宗教に関係なく一般的なマナーとして食事前に手を合わせるよう指導されます。
「頂きます」と唱える件ですが、これは最近流行の食育に熱心な先生方は「あなたの命を頂きます」という意味だとしています。一部のお寺でもお坊さんがその様に説教していると聞き及んでいます。個人的には「食べる」の謙譲語である「頂く」だと思っているのですが、ブログを見て回った限り、こう思っている人は極めて少ないようです。
最後に「頂きます」と唱えさせないよう求めた親について、「IT企業や投資ファンドにも共通点がある」とした点について、意図が全く不明です。恐らくマスコミが、とある人の「金さえあれば何をやっても良い」というセリフを何度も吹聴していることを念頭に置いた発言だと思いますが、何のどの様な共通点なのか不明です。
その上で自分は、宗教的意味が極めて薄らいだ現在の状況において、食事前に合唱の上「いただきます」と唱えさせる指導に意義は唱えません。仏教以外の宗教を信奉しており合唱に抵抗があるなど事情がある場合は個別の事案として対応すればいいし、仏教が嫌いな人はしなくてもいいと思います。自分は無宗教ですが、毎食合唱の上「いただきます」と唱えています。宗教的な側面とマナーの観点から、そうした方が良いだろうと考えてです。(食育もある意味、宗教だと思いますけど、食育は信奉しておりません。)
この話題に触れたブログを見ていると当人は「頂きます」とは言わないが、学校で「頂きます」と言わないのは問題だとしている人が結構いました。個人的に非常に疑問です。ある人は食育の観点から「食べ物の命を頂くのだから当然だ」というような事を書いていますし、あるひとは「宗教とは関係がないからやるのが当然だ」と書いています。でも当人は「頂きます」と言っていないわけで、どういう意図を持って「頂きます」と言わせたいのか全く分かりません。
ところで、合唱することと、「いただきます」と唱えること、大切なのはどちらでしょうか。ブログを読んでいると「頂きます」と唱える方が大切だとする意見が多いようでした。自分は宗教的な側面から手を合わせていることもあって「いただきます」と唱えなくても手を合わせる事があるのですが、そういったことは無意味で、手を合わせなくても心の中ででもいいから「いただきます」と唱えるべきだとする意見もありました。…それって意味があるのかな?と思ったりしないでもないですが、あまりに日常の話題故に、どんどんドツボに入っていくのでした。